続・魂のふるさと

zushonos2007-03-26


2日目の就寝前、父と2人になったとき、その日に撮った鳥の写真を見せて、鑑別を依頼した。小さくしか撮れていなかったのだが、父は「これはノジコである」と即断した。手元の図鑑によると生息地は中部以北となっているが、ほかに該当しそうな特徴の鳥も見当たらないので、ここはまあ父を信じることにしよう。
そのほかにも最近見た鳥の話をして、この鳥好きはあなたに由来する、と伝えたところ、父は「今はそれほど鳥が好きではない」と言い放った。ではなぜ詳しいのかと問いただすと、子どもの頃野山を駆け回り、野鳥を捕獲したりして遊んでいて、その鳥が何という種類なのか図鑑で調べるうちに詳しくなったという回答であった。あまり面白くない。「今は好きではない」ということになった原因に、20年前、祖父が何かに怒って、父が飼っていたメジロを逃がしてしまった故事が関係するのかどうか聞いてみたいような気もしたが、それはもう少し会話を積み重ねてからでも良いかと思い、今回は聞きそびれた。そういえば、サイトウが父の高級碁石壺に手を突っ込んでぐちゃぐちゃやったことに対して不満げな表情を見せたことをおぼえているか聞いてみようと思っていたのだが、これも聞きそびれた。
翌朝は母の作る朝飯を食ったあと、自宅に戻る方法を思案。大別すると、実家近くでゆかりの地を歩いて宇部空港利用のじっくり追憶コースと、福岡空港まで行ってスカイマーク利用で安く行き、途中の追憶ポイントをめぐるハイブリッドコースが考えられた。結局、山口市内に勤務する姉と昼食を食って、その後小郡(新山口は3文字もあって長いので以後も小郡と書く)駅から博多に向かい、福岡空港に行くことにした。
その前に、実家の建物内での追憶を果たしておかなくてはならない。実家は数年前に建て替わったが、かつての私の部屋と姉の部屋、祖父母の部屋として割り当てられていた部分は解体されずに残され、新築部分と行き来できるようになっている。旧祖父母の部屋は現在も祖母の部屋として利用されており、旧私の部屋と姉の部屋は、事実上の物置になっていた(これは新築部分ができる前からだが)。物置化している見るのはあまり楽しいことではないので、これまではあまり足を踏み入れなかったのだが、今回は追憶の旅と決めたので、敢えて足を踏み入れた。
私の部屋と姉の部屋は旧家屋の二階部分だ。まずは、五段目あたりで一度左に直角に曲がり、極小規模の踊り場となっている二階への階段を観察。書いていて思い出したが、階段の一段目に立って柱に背を付け、背の高さの部分に傷をつけずに鉛筆で印をつけるということをやっていた。今回撮った写真からは残念ながらその印は読み取れなかった。
階段からして既に物置の様相で、ダンボールや衣類が放置してあったが、途中の壁にかけてあるジグソーパズルが懐かしい。我が家の正月の過ごし方といえば、オレンジ色のホットカーペット(出力を調整するダイヤルが収められたコンソールボックスの重厚感は、現代の商品にはないものであった。あれ復刻したら受けそうだが邪魔なので売れないだろう)の上で、ジグソーパズルか百人一首を家族総出でやることであった。ジグソーパズルを組み立てるにあたっては、まず、ピースを箱の中に広げて、角のピースを集めるのが定石であった。ピースの山の中から、一辺もしくは二辺が直線になっているピースを抜き取って一箇所にまとめる。先日けんちゃんちで不良コーヒー豆を抜き出す作業を手伝ったが、そのときに憶えた既視感はやはりこれが主な原因だったのだろう。ピースの裏の色、モスグリーンと、そのときの豆の色も似ていた。
そして、踊り場の明り取りの窓上部に掛けられた、見る角度によって位置が変わる帆船の絵。なぜここに掛けられることになったのかわからんが、25年以上前から掛かっていたと思う。小学生になるかならないかのころ、なんだかその絵を恐ろしく感じていたような気がしてきた。
踊り場を過ぎると階段はまっすぐ続きそのまま二階の廊下が続く。廊下の上部には、おそらく私が初めて使用したベッドの部品である板が渡され、棚として利用されていた。棚の荷物のてっぺんには原辰徳のパーフェクト野球盤B型、その下にチャンピオンシップゴルフスーパーショット。どちらも後年、いささかくたびれていた店舗が火事で焼失、(多分)保険金で建て直され、さらに後に経営不振で廃業、現在は同建物にたぶん別のスーパーマーケットが入店している丸信のおもちゃ売り場で買ってもらったと思う。ちなみに中学生当時、焼失から再建の流れを「丸信計画」などと揶揄していた旧友は、この追憶の旅の最初に徳山駅まで私を迎えに来てくれた男で、県下最大のスーパーマーケットチェーンに就職、多忙な(というよりも休みの無い)日々を送っている。これは因果応報というのにはあたらないか。
二階の廊下は向かって左手前に姉の部屋、左手奥に私の部屋という配置であった。右手は西側の壁で、窓がある。突き当たりは押入れで、今回はここを開けそびれた。
まずは手前の姉の部屋を入り口から眺める。姉の部屋とはいっても、姉も10年以上前、私とほぼ同時に一人暮らしを始めたので、以来基本的に無人であった部屋である。さらにいうと20年くらい前までは、私と姉の部屋は逆であった。あともう一回くらい部屋を交換したことがあるような気がする。
現在ではおよそ物置になっていて、本棚が目立つくらいであった。この部屋は北と東にしか窓がないのだが、東側の窓は新しい家の二階が半分ふさぐような位置に建っていて、しかも今回は雨戸が半分占められており、従前にも増して暗くなってしまった。
この部屋の入り口は木製の引き戸が一枚あって、開放時は壁に沿って収納される。よって、つっかえ棒的な工作がやりやすく、私の部屋時代、夏休みなどの長期休暇時、向かいの家に滞在する(つまりじいちゃんばあちゃんところに預けられる)同年代のまーくん(当時生活の本拠は静岡)と遊んでいてもめたときなどは、自室に閉じこもったりしたものだ。その際まーくんが窮状を私の母に訴える声が聞こえてきたのだが、呼びかけ方が「おばさーん」だったのをよくおぼえている。当時の我々が友人の母に呼びかけるときは「おばちゃん」であったため、なんだか「静岡野郎いけすかねえ(という語彙は当時なかったけれどもね)」と思ったものだ。今でも正月などは顔をあわせるが、そのナイスガイぶりを見るにつけ、私が狭量だったのだろうなあと思い知らされる。
野球盤とゴルフゲームをくぐって私の部屋へ。廊下の柱と柱に手足をつっぱって高いところに登っていく遊びが好きだったが、体が半端に大きくなって、つっぱることができなくなってしまった。
私の部屋といっても、10年以上前に私は出て行き、その後新しい建物が建つまでは基本的に母が一人で使っていた部屋だ。その後はやはり物置。扉は模様が入ったガラスが木の格子にはまった二枚の引き戸。当初は気にしなかったが、おそらく高校生になった頃だろうか、プライヴァシィというような考えを持つに至った私は、入り口にカーテンをつるして灯りが漏れないように工作した。この部屋は東と南に窓がある。東側は自宅の庭で、新しい建物も、この部屋の窓までは塞いでいない。南側は老人ホームが近い。私が居住していた晩年に、老人ホーム側から何かの燃えかすのようなものが大量に飛来して以来、雨戸を閉じたまましていて、結局窓は東側のみという状態だった。何かが大量飛来に先立つ大型台風の日、風が強くなってから慌てて雨戸を閉めた直後、飛ばされてきたおそらく瓦が窓付近に激突したらしく、派手に砕ける音がしたことを思い出した。
そんなわけでこちらもやや薄暗く、基本的には物置なのだが、入って正面、東側の壁にふしぎの海のなんとかのたぶん最後発くらいのアルバム予約特典ポスターが、ご丁寧に保護用のビニール袋に入れて(もちろん入れたのは自分だ)貼られたままだった。振り返って西側の壁には、近藤和久によるZZガンダムのポスター(やはりビニール袋入り)。その上にはたぶん1988年くらいのLOGINの付録、X68000版ラストハルマゲドンの合体表ポスター(こちらはむき出し、一部裂けていた)。ラストハルマゲドン(持っていたのはPC88版)は5枚目くらいのディスクが壊れていて交換してもらった。学習机と向かい合わせに配置していたパソコン机に向かってラストハルマゲドンをやっていたら、学習机に座ったNさんに背中を蹴られたなど、思い出深い。愛と優しさ。このほかにもたくさんあったあれやそれのポスターは、自分ではがしたのかどうかわからんけれどももう無かった。南側の壁には「京都」とかなんとか書かれたペナント(祖母の土産だったはず)など、いろいろが当時のまま。これらを貼ったまま生活していた母をライフタイムリスペクト。小学校入学時に買ってもらったコクヨロングランデスクはその名に恥じずいまだ物置台として現役で、いちばん手前の角には5インチフロッピーディスクを100枚収納できるケースが鎮座していた。
そうはいっても、部屋に入った直後に目に付く私の持ち物はそれくらいだ。しかし、部屋の左手奥、半畳分のスペースの押入れに、いろいろ詰まっているのはわかっていた。そこだけは手を付けないでくれと注文したおぼえがある。以後、何度か開けたのだが、正確に何が入っているかは思い出せなかった。たぶんふしぎの海のなんとかのCDは揃っている。5年以上欠かさず買い続け、一冊も処分しなかったファミ通とLOGINは一時ここに保管していたが、いつだったか、大半を処分したはずだ。
押入れの戸を開けた。懐かしいオレンジ色の子ども用整理棚(特異なキャラクターが描かれていたのだが、内容物に気をとられてこれの写真を撮り忘れたのが心残り)、白地に黒の格子模様および木目調のカラーボックスが各1点。
オレンジ色の棚には、シャーロックホームズ関係の本とか、あれやこれやのポスターとか、ワンダービットの単行本など。一部母の持ち物も突っ込まれていた。棚の上にはBB弾やP.90のパッケージ(オカムラで買った時に付けられた包装紙付き)。このほかこれを読む可能性のある人に距離を置かれたくないので書くのがはばかられるアイテムなど。
木目調カラーボックスには、文庫本、一部母の本、ふしぎの海のなんとかのCDなど。棚の上には5インチフロッピーディスク大戦略IIIの対戦用に購入したクロスケーブル(PC98DAとディスプレイを運んで直結して対戦したのだ)、ルナティック・ドーンとか、天下統一IIとか。
格子模様カラーボックスの棚にあったのは何かの本でよく見ていないがたぶん本の雑誌など。この棚の上にあったものは、各種プラモデルやエアガン、ファミリーコンピュータ本体の箱に加え、ジョイボールの箱と、ネクロスの要塞初期のフィギュアが多数詰まった箱という、今回最も堪えた二品があった。
ジョイボールのパッケージは下の写真の通りであるが、うちにはゼビウススターフォースもなかった。シューティングゲームツインビーくらいしかなかったはずで、これとて、連射の重要性は比較的低いゲームであったと思う。宇宙感覚・ハイテク感覚に興味があったわけでもない。

ジョイボールを購入した経緯は、思い出せる範囲で書くとこうだったと思う。まず、サードパーティー製のコントローラーが欲しくなり、当時の雑誌のレビューを見る。最高得点はアスキースティックだが、定価が8,800円と、ねだって買ってもらえる金額ではない。値段を下げていくと、ハドソンスティック、ファミリーキング(これは高かったかもしれん)、ジョイボールあたりか。この中で最も評価が高いのはジョイボール。偶然(というか今思えば在庫処分で必然だったのかもしれん)大和のエスコランド(おもちゃ屋です)かどこかで安売り(確か1,980円)していたので、ねだって買ってもらった。
しかしこれが使いにくい。パッケージ写真にあるように、ボールを包むように持つと、微妙な操作が難しいのである。ツインビーにすら役に立たない。当時自称世界で8番目に上手かったスペランカーも、ジョイボールでは難しい(後に試したアスキースティックL5に比べれば使いやすかったが)。危うく死蔵しかけていたが、パッケージイラストを無視して、親指以外で底面を支え、ボールのてっぺんに親指を置くと、軽い力で操作できることに気づき、ファミリーサーキットでは大変重宝した。ほかにはいききくぬぬぬぬ(http://d.hatena.ne.jp/zushonos/20041222)の命名などに役立ったような気がする。
大量のネクロスの要塞のフィギュアは、一番気に入っていた第1弾のマーシナリーが、なぜだか偶然にもてっぺんに乗っかっていた。なぜだかといえばこの熱で変色するフィギュアというのは誰が発案したのだろうか。まあよろこんでホットカーペットと座布団に挟んで変色させていましたけれどもね。で、ホットカーペットの上にチョコレート菓子をも放置してしまい、溶けた後で気づくこともままあった。わりとたくさん買ったと思うが、当時の私には、パッケージに書かれたルールが読解困難で、ルールに従った遊び方はついぞしたことがない。後年はさいころ遊びのコマとして利用されていたような気がする。
この部屋では実に長い時間を過ごしたので、他のものを見ればまだまだいろいろ思い出しそうだったが、このくらいでやめにしておいた。そういえばこの日記のタイトル「魂のふる里」(平沢進)をはじめてそれと認識したのも、確か高校生のとき、姉が借りてきたCDだかカセットテープだかをこの部屋で聞いたときであった。
実家を出て自宅に向かうまでの話をまだ続けるつもりだがさすがにこれまでよりは短くなるはず。