魂のふる里

機会があって、一人で帰省し、故郷に2泊した。初日は、21時に徳山駅についたのだが、宇部での勤務を終了した旧友に迎えに来てもらった。彼は正月以来休みがないそうだが、それでも従前の6時始業22時就業に比べると、最近は7時始業19時終業と、多少人道に歩み寄った労働環境になっているようだ。そんな人に迎えに来いというのはひどい話だが、彼は「気分転換になる」と(多分)快諾してくれた。
徳山駅で少々待ったのだが、その間に立ち寄ったローソンで、県内ローソン数量限定発売、ただし好評につき再発売という一久のカップ麺を目の当たりにする。これは、迎えに来てくれた友人から先日報告を受けていたのだが、自分の目で見るまではなかなか信じがたいものではあった。
一久は、たぶん宇部市内に複数店舗を展開するとんこつラーメン屋である。中学生になるまでは、外食の少ない我が家にしては、わりと頻繁に通っていたと思う。同一店に通った回数だと、おくうべと一久(川上店)が双璧だろう。そのラーメンは、先日10年ぶりに会った、宇部出身横浜在住の友人(今後もたくさん出てくるので以下サイトウ)をして「横浜の家系ラーメンがうまいのは認める。だが、俺が食いたいのは一久のラーメンだ」と言わしめるほどだ。味について表現すると、サイトウ、今回迎えにきてくれた友人、それに私は「文字通り泥くさい」と口をそろえる。文字通り、である。その泥は、上宇部校区内を貫く母なる流れ、真締川の泥ではないかと推察する。店舗によって味が違うともいわれているが、私には「一久は一久じゃろ」としか思えない。使っている泥が、たとえば厚東川のそれを使うなど、違うのかもしれない。カップ麺もこの泥くささを忠実に再現していてほしいものだ。それ以外は容易に再現できよう。ともかく、一久のラーメンは宇部市民のソウルフードなのだ。
徳山から夜中の国道2号を西進。高速道路でも良かったのだが、この時間帯は流れが速いのでストレスレス。あまつさえ私は助手席である。ここ数年は年越しのときにうちに来てもらうので、年に一回会うだけだったが、今回はわずか3ヶ月ぶりで、しかも先方はその間休日がなかったので、仮に休みがあったとしてもそうなのだろうが、大した話はない。眠いとか、疲れたとか、年が明けて友人も30歳になったので劇画オバQのすすめとか、そんな話だ。
今回の帰省は、長い時間が取れるわけではないので、実家周辺で、過去親しんだものをめぐってみようと思い、手始めにこの日の晩飯に一久に行く計画であった。しかし、22時を過ぎてしまうと、一久を含め、営業している店が少なく、結局空港近くのとんかつ屋で晩飯を食って、自宅まで送ってもらった。翌日の夕食は私の実家で母の手料理を食おうと約束。

到着時、母は勤務先の行事か何かで泊りがけの旅行で不在だったので、父と祖母が出迎えてくれた。父の最近の勤務地は徳山だそうで、事前にわかっていれば徳山で待っていてもらうのも良かったかもしれん。ここ15年、自分に把握できる範囲で、つまりはよくわからんまま父を軽蔑したり無視したり自分と父の類似点を否定することを諦めたり鳥に関しては一転して尊敬したりしていたが、会話はほとんどなかった。ほかの面子がいればそちらと話をしてしまうのだが、母が不在なら、父と話す絶好の機会と、原辰徳のパーフェクト野球盤B型で遊びながら話でもしてみようかと思っていたのだ。結局帰着が夜中になり、父は翌朝も早いということだったので、ろくに会話もせず風呂入って就寝した。
翌朝は少々遅めに起きて、祖母が見守る中ほそぼそと朝食。ほそぼそとはいってもハヤシライスをしっかり平らげた。10時頃、母が旅行先から帰宅。昨日の有様(一久食い損ね)を報告し、母と2名で昼飯に一久に行くことにした。
その前に本場のUNIQUE CLOTHING WEARHOUSEに出かけて着替えを買い、近所のCOOPで買い物。母のスプリンターを運転させてもらおうとしたら、それは良いがこれを見ろと、運転席のドアが大きく赤く傷ついているのを見せられた。自損で生物は巻き込まなかったそうだが、正月の転倒の件とあいまって、やや不安を覚えた。
しかし、すぐに、自分の運転というか、おそらく8年ぶりくらいとなるMT車クラッチ操作のほうが不安要素を大きく抱えていることに気づいた。クラッチをつなぐのに失敗してストールという場面こそなかったが、どうにもsmoothでない。個人的にはクラッチつなぎの失敗とみなさないでいるのだが、駐車場から出るときバックギアに入れようとして、クラッチを踏む行為を一切失念し、ストールしたことはあった。
本場のUCWに行く途中、廃業し取り壊されたスーパーや、サイトウの実家前を通る。商業ビルに入ったテナントも様変わりし(たとえば多分市内初の書店とCDレンタル屋複合店BOOKSWORLDは数年前ダイソーになった)、絶妙の閑散とした雰囲気を保ちながら、この街は変化しているのだと解釈した。私が中学・高校時代、1年のうち300日くらいは通ったであろう沼書房が廃業したため、UCWの向かいにできた宮脇書店がほぼ最寄の本屋になってしまった。ここは多分神原校区なので、私の姉の学年は児童数300人超を誇った上宇部校区は、いまや無書店校区になってしまった。
COOPを経て、宮脇書店横の坂を上り、常中・高専・工学部・三久の交差点に出る。前3つは学校の略称で、最後のやつは一久同様のラーメン屋だ。5叉路だか6叉路だかのなんだかよくわからない交差点をおおむね直進方向に進み、開を抜ける。中学、高校生のころは、定番の自転車移動ルートだった。
開からは、墓地の脇を通って北迫に抜けるのが適切ではあるが、7年ほど前に失踪したとされる、竜を見た男・ケンリくんの実家前を通ってみるべくひらき台に入る。ちょうど彼岸で、墓地の脇は墓参り路上駐車が多発していたため、無駄な寄り道というよりも混雑を避けた効果はあったが、ケンリくんを発見できるはずもなく、寄り道そのものは成果なし。
北迫側に下った道は、10年ほど前から改変につぐ改変で、もう落ち着いてしまってからも長いのだが、改変が始まる前の記憶が強く、いまだに正しい経路がよくわからない。少々迷いながら川上小中学校の前を越え、一久川上店に到着。かつては一久の前が国道490号であったが、宇部IC開設にともなう道路整備で、一久前は旧道となってしまった。姉の友人が一久前の通沿いに住んでいるのだが、このルート切り替えが行われた直後、その切り替えがあまりにも円滑であったのかひそかに行われたのかわからんが、ともかく気づかず、自宅に帰れないという事態に陥ったという。
で、一久に着いた。3人がけのテーブル席に着く。椅子は座面が刃物で切り裂かれたようになっていたがかまわない。母はもともとこの手のある種お安い外食を避ける傾向にあり、地元にありながら一久は私に劣らず久しぶりだろう。だが、後に「メニューを見ずに注文した」と述懐するもやしラーメンを、私はメニューを見てチャーシューメンを頼む。喜多方でチャーシューを食ったとき、あのような濃厚なものはもう食えないと実感したが、一久のチャーシューはきっと薄くて大丈夫だろう。コップに注がれた水は期待通りの風味だ。
果たして想像通りのチャーシューメンが来た。チャーシューは薄く、数も少ない。これなら食える。記憶にある通りの黄色い細麺。そして、記憶にある通りののどごしの、ややざらつくような、それでいてねっとりとした、かといって濃厚とは言いがたい、あのスープ。まあ、15年は食っていなかったなのでよくおぼえていないのだが、最近の話題で甦らせた記憶とおよそ一致するものであった。
一久現役時代に、コロコロ増刊だか掲載作品「お助け仕事人」(あすかあきお著)の、経営が傾いたラーメン店を立て直す(作中では文字通り「建て」直していたような気がする)話を読み、ラーメンのスープは飲み干してあげたほうが店の人には嬉しいものだと刷り込まれ、また、他人に好印象を持たれたいきらいがある私は、以来、スープ飲み干しをできるだけ実践していた。「一久=泥くさい」は、そんな中で培われた記憶でもある。もちろん今回もスープ飲み干しに挑戦。期待していたのは、飲み干した後なお残る沈殿物の有様であったが、量も粘度も大したことはなく残念だった。ちなみに母はスープをほとんど残していた。お助け仕事人的観点からすると失礼であるが、人としては頷ける振舞いだ。
おおむね満足して店を出た後、祖父の墓がある中山観音に向かう。途中、旧谷山商店・現ローソンの脇を通る。現在この近所に勤務する母の話によると、分母が不明瞭だが、市内だか県内だか、ともかく一定範囲内のローソンで売り上げ一位なのだそうだ。キショウともども好調なようだ。
中山観音では「ねこ横断注意」の看板が撤去されており、猫の姿も見かけなかった。中山観音を初めて訪れた記憶は、祖父が亡くなった後なのだが、それももう10年以上前の話である。祖父の通夜で、火を絶えさせてはならぬと言われた線香を親戚のおっちゃんと二人で見ていたのだが、一瞬同時に眠ってしまい、火を絶えさせてしまったことが思い出された。そのおっちゃんも数年前、小郡駅新山口駅に名を変える直前、これに抗議するように亡くなってしまった。
墓参りの後は真締川沿いの道を下り、宗隣寺前まで行って、私は降り、母は車を運転して先に帰った。宗隣寺の龍心庭といえばなんとか文化財なのだが、故郷にいる間は有難味がさっぱりわからなかったというか存在すら認識していなかった。おっさんになってこの手のなんとか文化財とかいうのに多少影響されやすくなったのか、故郷を誇る材料が欲しくなったのか、ともかく一度くらい見に行っておこうと思ったのだ。が、宗隣寺はなんだか建替え中で、どうやってその庭園を見に行けばよいのかわからなかった。拝観料300円という看板はあったが、工事の人をつかまえてまで見に行きたいとは思わなかったので、引き換えした。私の興味は結局その程度だ。
宗隣寺から、真締川に引き返す。おそらく河口まで1kmほどのこの地点で、川幅は5mないくらいか。大きな流れではないのだが、上宇部校区内を流れる唯一の川らしい川で、祖父に連れられて魚を釣りにきたこともある、マイソウルリヴァーだ。市内となれば、さらに大きな厚東川という川があるのだが、これとて、大きな河川敷はない。大学に入学して東京に住むようになり、最初に嫌だと思ったのは、建物の高さと密度による空の狭さ、土の地面の少なさ、日没時刻の早さだったが、広大な関東平野を流れる大河の広い河川敷や中洲には感心した。
最初は川土手の上、ガードレールの外側すぐのところを歩いていたが、川の上に張り出した木の枝に止まった鳥に近づきたくなり、申し訳程度の川原に降りる。アオサギやノジコ、ジョウビタキなど、故郷にいるときはまったく気づかなかった鳥がたくさん。近づくと、川のにごりが目に付く。やはり一久の泥くささはこの川由来に違いない。川原には、投棄されたのか流れ着いたのか不明だが、ごみが溜まった地帯もあり、この有様がまたソウルフル。
道路を挟んだ反対側には、もうひとつのソウルプレイスである護国神社があった。小学校低学年時、ここで催された祭りの屋台で売られていたキン肉マンのトーナメントマウンテンか何かのリングのおもちゃ(リングロープは輪ゴムを使うようになっていた)が欲しくてたまらず、結局ここで買ったのかどうか忘れたが、何らかの方法で手に入れた。ザ・ニンジャのなんとかの術を輪ゴムのロープを使って真似てみたりしたものだ。が、今回は護国神社には行かずに通過。
川原を上流方面に歩き、小学校低学年時には、毎日のように一緒に遊んでいたてっちゃんの家の裏手らしき場所に出た。そこには毛利時代に由来するなにやらという石碑というか石柱というかが建っており、これまた初見であった。ところで、一時気恥ずかしくなって「てっちゃん」ではなく「てっつん」と呼んでいたが、この年になるとむしろ「つん」の方が気恥ずかしい。それは、unknownと似て非なるunkoman(サイトウ)が主張する、u-wordを卒業したつもりになり、年を経てまたそこにもどってくる流れと一致しているのかもしれない。
さらに上流まで歩くと、何度か祖父と釣りに来た場所に着いた。当時感じたスケールとのギャップは想像していたとおりだったが、水の濁りっぷりは想像以上だった。
ここからは実家に戻りがてら、おそらく祖父に釣りに行く途中に連れて行かれた、当時からして年季の入った店構えの商店を見つけようと思っていた。ところが、実家方面に歩き始めてすぐに分岐。そういえばこの場所までの道のりが記憶にない。
どちらがメインルートかわからず、さしあたって右を行く。なんだか見覚えがあるような気がするところを通ったりしながら、結局行き止まり風味になってしまい、民家の庭先のような場所を抜けて再び車道に出る。このあたりを含む実家周辺は、15年ほど前に住居表示が実施された。おそらく古い町名がどこかに表示されているなら多少土地勘が働いたのだろうが、一帯が実家と同じ大字になってしまって、これがさっぱりわからない。実家の近くにいるという自覚がなければ、迷ったと錯覚するところだった。
迷ったと錯覚せずに済んだ要因はもうひとつあって、このあたりは高台になっており、畑が多く建物もまばらで、空き地もある。空が広いため、実家のある方まで見渡せたる。参宮通りは谷底に位置するのだなとわかる。実家も参宮通りからだと一段高いところに位置するが、ここはさらに二段ばかり高い。
てっちゃんちの裏の石を投げ入れて跳ね返る音を聞いて遊んだ竹林が健在かどうか、というよりも竹林の裏に何があって、投げ入れた石がどこへ向かっていたのか気になって確かめたかったのだが、迷ったためにあてっちゃんちの入り口を見逃してしまい、気づくとてっちゃんちではなくまっつんちの近くに出ていた。まっつんは、当時の私の交友関係の中では一番のホビー少年で、ラジコンやメンコでの遊び方は彼から教わった。また、彼の家で見た「木人拳」に受けた衝撃があまりにも大きく、以後、私の中での格闘映画永世第一位となっている。
ともかくまっつんちから丘を下り、サカイノリミツ(保育園時に同じ組だったことがあり、ガンダムごっこ(マゼラトップが撃たれて回転しながら飛んでいく(という場面があったような気がする)のを真似てひざをすりむいた)をした記憶あり)んちの近くを通ってまた車道に出る。車道とはいってもせいぜい1.5車線だ。車道脇の田んぼは思ったよりも広大。そして、てっちゃんちに通うときに必ず通った細い道を実家方向へ。この細い道の途中の角、一段高いところにある家では、よくおぼえていないが確か小型の犬を飼っていて、この犬が実によくほえていて、これが恐ろしく感じられ、てっちゃんちの往復の一つの関門になっていた。当時から見栄を張るのが大好きで、人に弱みを見せないようにしていたつもりの私は、誰も見ていないのに、おびえていないふりをして、しかし心拍数を高めながら、足早に通り過ぎていたと思う。最終的には気にならなくなっていたような気がするので、小学校2年の後半には克服できていたような気がするが、やはり心拍数は上がっていたのではなかろうか。あいや、この道はその後小学校4年までしんごちゃんちに通うためによく通っていたので、もっと時間がかかったのかもしれない。今でこそ動物全般が好きで、犬も大好きな私であるが、もし犬に対しておびえるようなそぶりを見せたときは、きっとこのときに受けた心の傷が原因だ。
今ではその犬はもちろん、犬自体がおらず、人の気配もない。そういえばサイトウとも話題になったが、全般に人気がない街ではある。クリスマス時期に駅前に出かけたときもどこにも人影が見当たらなかったので、私を驚かせようと、駅前の(相対的に)大通りを横断するための、今にしてみればずいぶんと小規模な地下通路に、街に繰り出している人々が全員隠れてしまったのではないかと想像してみたりしたものだ。ともかく関門を抜けて、自分史上自宅が最寄のクラスメイトであったバスケットボールプレイヤーの家の横を通り、ようやく実家に着いた。
結局祖父に連れられて行った商店はわからずじまい。もう一箇所、祖父に連れられていった商店で思い出深いのは、後に高校への通学路の途中の坂にあった商店で、名糖ホームランバーを買ってもらったのだが、これは参宮通り拡張に前後して廃業したと記憶している。それはともかく、結果的に、実家近くにありながらほとんど足を踏み入れたことがない地域を縫ってきたが、実に豪邸が多い。私の実家も、親しい人には半ば本気、半ば冗談で「豪邸」と自称しているが、まあ世間並みな家だねこれは。
実家で少々休憩したあと、宮脇書店まで立ち読みしに行きがてら、通った中学・高校の横でも通ってみようと再び出発した。参宮通りにまっすぐ出るか、老人ホーム脇の細道を行くかで迷い、後者を選ぶ。そういえばこのあたりはかつて路面に「老人ゾーン」と書かれていたが、いつしかそれが「シルバーゾーン」になっていた。
細道は、中学校在学時に火事で焼けてしまった家跡の横を通り、市民センター(今では別の名称かもしれない)脇を通っていく。市民センターでは、ジュニアリーダーという組織の忌まわしくもほほえましく実は私にとって大きな意義のあったような組織の活動が行われていた場所で、またそのなんとかリーダーに同時に在籍していたマブダチが、件の火事にあった家に関して学校で募金が行われた際、周辺の輩があまりに無関心であったことに義憤していた様が思い出される。またその義憤ぶりが、普段の彼の虚無主義的発言からは意外に感じられた。この意外さは、サイトウが普段から父親に対して反発する発言ばかりしていた(ゲームブックをルールに従って読んでいたら「真面目に読め」と注意されては無理もないが)のに、仏壇屋のちらしを見て「こう安売りばかりしているのに、定価で仏壇を買うやつはいるのかねえ」と疑問を口にした私に対し「俺は先祖のための仏壇を安売りで買うやつの気が知れない」といった趣旨の発言をしたときにも感じたが、その2回くらいか。
そして旧沼書房方面へと進む。そういえば沼書房の角の「山陽シロアリセンター」だかなんだかの看板に、中学校の級友が油性ペンで漢字2文字を書き足して別の友人の名前を完成させるといういたずらをしていたが、自宅や自分の所有物のほかには学校の自分の机(これも所有物と勘違いしていた)くらいにしか落書きをしたことがなかった私には衝撃だった。落書きをした級友は東京からの転校生であったが、東京者はやることが違うと思ったような気がする。つうか犯罪ではないのかねこれ。
素直に宮脇書店に行くならここで左折するべきなのだが、右折して、ソウルスーパーである旧ダイセーの方に行ってしまう。ダイセーは自宅から最寄のスーパーで、また、隣に沼公園、近所に生野公園があり、友人たちも周辺に多く住んでおり、おそらく最も多く通ったスーパーマーケットだ。最盛期にはここのほかにもう一店舗あったらしいのだが、残念ながらそちらは見たことがない。祖母はよくこの店を「おおにし」と呼んでいた。ダイセーになる前はおおにしであったらしい。おおにし<->大西<->ダイセー、である。
遠足のおやつはダイセーか丸和で購入するのが常だった。50円アイス3個で100円は夏季の定番で、アカキュラやクロキュラを好んで買ったものだ。それほど大規模な店舗ではないのだが、小さいながらも文房具コーナーがあり、NFLのチームのヘルメット一覧が載った下敷きを買ったことがある。近所のみよちゃんが当たりつき10円コーラ飴を5個連続で当てた。店独自のダイセースタンプを発行していた。25年くらい前、ここで初めて買ったベビースターやカールのパッケージは、中が見えない全面アルミではなく、透明な部分のあるビニールの袋だった。
そんなダイセーも数年前に廃業し、しかし店舗は閉店時のまま。屋根の部分に打ち付けてあった「TEL」の文字のうち、Tだけがめくれて、他の文字にひっかかって留まっている。おそらく補完関係にあった、道を挟んだ魚屋も廃業。ただ、その2店舗を見下ろすように建っているリアル豪邸は、昔のままだった。
この豪邸は、詳しくは知らないのだが、どこかの社長が住んでいるらしい。たぶん敷地は500坪を下らないであろう。高い塀の向こうに複数建つ建物はいずれもでかくて立派。今回初めて蔵があるのを知った。都心部なら、がんばって3階建ての家を建てるくらいの面積のゴルフ練習場(ネットを張って打ちっ放すやつ)がある。庶民の僻みであろうか、良くない噂が耳に入ったこともあったような気がするが、いやはやリアル豪邸だ。
リアル豪邸の角を右に行くと、生野公園がある。ここは後述の沼公園に比べると小規模で、ソウル度(≒利用回数、滞在時間)も少ないのだが、最寄のローラー滑り台がある公園であること、おそらく自分史上最多人数で鉄砲遊び(いわゆるサバイバルゲームもどき、エアガンでBB弾撃ちあってあそぶやつ)をした公園であるという2点で比較的重要な場所だ。
すでに17時になろうとしており、陽は傾いていた。そんな中、生野公園には、幼児連れのおばちゃん(といっても私より若い人もいたであろう)が5組ほどいたのだが、私が入っていくのと同時に皆帰ってしまった。もともと解散する時刻だったのだろうと思いたいが、公園で遊んでいるところに、無精髭を生やした、所持品は一眼レフカメラのみというおっさんが一人でやってきたら、私が親なら逃げ出すかもしれない。
ともかく一人残された私は、まずローラー滑り台に向かい、近くに寄ってみて愕然とする。ローラーでない、通常の滑り台に成り下がっていたのだ。自分の記憶違いを疑ったが、そんなはずはない。雨が降ったあとにできる、ローラー滑り台特有の、滑り台下の文様が思い出される。今ではその代わりに、不規則に並ぶアリジゴクの巣と思しきものができてしまっている。夢が破れた気分だ。
その他の遊具はそれほど記憶になかったのだが、長方形の敷地にあって、中央部の壁際にあるトイレは記憶のままだった。当時から何か違和感があったのだが、いま見るとなお強い違和感を感じる。公園全体をネイチャー風味で統一しているといったわけではないのに、突然、外観が木の切り株様なのである。上部の模様は見えないが、平らで、外壁は木の幹のようになっている。入り口は公園中央を向いており、奥に向かって和式便器が1器。で、記憶にある限りでは、入り口の扉は常に開いており、今回も例外ではなかった。どうにも落ち着かない。
それもまた懐かしく感じながら、もう一つ期待というか妄想というかをしていたのは、あのとき鉄砲遊びでさんざんばら撒いたBB弾がなぜかどこかに落ちていて、それを手にした瞬間に、当時の記憶がフラッシュバックするという、ドラマのような演出が起こったりしないかなあということだったのだが、残念ながらBB弾を見つけられなかった。あの時は発売されたばかりのトイテック製P.90をオカムラの新店舗で買って、重量級のエアタンクを背負っていたので、ジャミング対策に、安いオレンジBB弾ではなくて高級の0.2gだったかの白BB弾を使っていたはずだ。オレンジだったら目立ったのになあ、などと思いながら生野公園を後にした。
続いてダイセー隣の沼公園に向かう。ダイセー側から入ると、手前にバックネット付きのグラウンド、藤棚の下にベンチがある休憩スペースを挟んで、奥にブランコや滑り台が並ぶ。
グラウンドでは、そろばん塾や子ども会のソフトボール練習をしたことが思い出される。当時は比較的体が大きく肩も強かったのでそれなりに重宝されたが、スローイングにおいてはコントロールが悪く、バッティングにおいてはなかなか良いところに飛ばなかった。守備はまあまあだったと思いたい。
主な追憶は休憩スペースから向こうで体験。休憩スペースの並びには、動物をかたどった乗り物というのか遊具というのかがある。私自身、最も気に入っていたシマウマやカバは、度重なる塗りなおしを経て、背中部分は傷だらけであったが、なお健在。シマウマの目はかつて青色も使われていたが、現在ではモノクロになってしまったのがさびしい。かつてはエアブラシを使ったのか、スミ部分がフェイドアウトするような表現がしてあったような気もするが、現在は完全にベタ塗りである。カバは相変わらずキバの先端の塗料が真っ先に剥げて黒くなっていた。背中側から見ると耳と目が同じ形で、まるで目が4つあるようで不気味なのも相変わらずだ。が、かつていたライオンの代わりにゴリラが、そして、何がいたか思い出せないところには、まるでシーサーペントのごときうねりの、というよりも足の部分がなくコブから上だけのラクダがいた。
そのほか、地面から生えたばねに固定されて、ハンドルがついてまたがって揺らして遊べるようになっている面々は、犬、いるか、かえるで変化なし。樽状の椅子のようなやつらは模様が描きかえられていたような気もするが、はっきりしない。
さらに奥、遊具のスペースでは、まず滑り台に注目。2方面から登れるようになっており、上部で合流、2方面に滑り降りられるタイプだ。そういえば今回きちんとこれを見なかったが、たぶんそのままだった。きたちんやこにたんと一緒に遊んでいるとき、一級上の暴れん坊が、ゴムでパチンコ玉をはじき出すスリングをこにたんに向けて発射、背骨横に命中、こにたんのあまりの悶絶ぶりにさすがの暴れん坊どもも顔面蒼白になっていたことを思い出す。他人に怪我をさせたといえば、子ども会の行事で、市民センターのホールにおいて、何歳か下のキッヅ(当時は自分も充分キッヅだが)の手を持って砲丸投げのアプローチ様にぐるぐる回していたら、アプローチでは事足りず、リリースまでしてしまい(誓って故意ではなく過失だが)、頭部を柱にぶつける大怪我をさせたことがある。隣の整形外科に急患で運びいれ、無事回復したと聞いてほっとしたが、本当はもっと大変なことになってしまったのに、私の将来を守るために口裏を合わせているのではないかと自信過剰な妄想をしたものだ。
そして、滑り台横に目をやると、私にとって最もソウルフルな、運梯、鉄棒、なんだかよくわからんはしご状のあれ、そしてこれもよくわからん半円状階段付き平均台のセット。ショートコースは平均台のみで、フルコースはこれらをすべて組み合わせて、2チームに分かれて、反対側の端と端から一人ずつスタート、相手チームと鉢合わせた場所でじゃんけん、勝ったほうがそのまま進み、負けたほうは道をゆずって自陣に帰り、最後尾で待ち構える。負けたチームの次のメンバーはじゃんけん終了後すぐにスタート、また鉢合わせたところでじゃんけん。相手チームの陣地にたどり着くまで繰り返すという、なかなかスリリングな、じゃんけん障害物競走陣地取りゲームがあった。これはいまやっても面白いような気がするが、人目を気にせず楽しめる元気な人はあまりいないだろう。翌日姉にこのゲームの話をするとおぼえていたので、私の周辺では定番のゲームだったようだ。
で、このセットに組み込まれることもある運梯は、ぶら下がって進むという本来の使い方のほか、よくその上に立ってみたりしていた。大学生になって登呂遺跡に行ったとき、高床式倉庫の中を覗き込めるようにしてある通路に上がることすら億劫に感じ、童心を忘れかけていることを悟り愕然とした私はしかし、その後も順調に童心を失い、たとえば今回もブランコと滑り台は利用できずじまいだったが、運梯の上に乗ることだけは実施した。そこからこのじゃんけん障害物競走陣地取りのコースを俯瞰して写真を撮る狙いもあったのだが、手持ちのレンズでは画角が足りなかった。
もう一つ、この運梯には痛い思い出がある。小学校低学年のころ、祖父に連れられて遊びに来たとき、良いところを見せてやろうという気持ちでもあったのだろう、たぶん逆上がりはできなかったが運梯はできた私は、得意げに2往復くらいしたのではなかったか。そうしたところ、一瞬で手のひらの半分くらいの巨大血マメができ、またそれに気づかず運梯を継続したため、すぐに血マメが破れて両掌の皮が半分くらい剥けてしまい、号泣しながら家路につくことになってしまった。家族の誰かに「怪我をしたところが治ると前よりも丈夫になるよ」となだめられたのをおぼえているが、なるほどその後の運梯で激しい血マメができたことはない。
ちなみに、現在は写真の通りの色で、それもはげかかっているこの運梯は、私が血マメを作ったときは濃紺一色に塗られていたはずだ。しかし、剥げた塗装の下にも、濃紺は覗いていない。一旦はがして塗りなおしたのかもしれないが、なんだか自分の痛い記憶が消されてしまったような気がした。

沼公園では、ボックス型のブランコが二つあったと記憶しているが、いずれも撤去されていた。ボックス型ブランコは数年前に事故が多発しているとして全国的に撤去されたと記憶している。ローラー滑り台ももしかしたら危険とみなされたのだろうか。しかしこちらは全国に多数あるらしいので、よくわからない。コンクリートで縁取られ、中央にもコンクリートの足場がある円形の砂場に砂が少ないのは相変わらず。この縁をよく自転車でぐるぐる回ったものだ。
ダイセーは公園の北側だが、東側はかつては田んぼだった。てっちゃんと、公園との間の水路に棲むカエルに向かって、水が抜かれた田んぼから拾った土くれを投げつけて遊んでいたのを思い出したが、今はその田んぼは市民農園として畑になり、時期の問題もあろうが、水路の水も涸れていた。
すっかり陽が傾いてしまい、宮脇書店まで行く元気がなくなったので、元田んぼ、現市民農園の横を通って参宮通りまで出て左折、実家に帰ることにした。この左折した場所あたりに、25年くらい前まで牛が飼われていたはずだが、この記憶は非常にあいまいであり、特にその場所については自信がない。
左折して少し進むと旧沼書房の現住宅販売業者か何か。沼書房について書くとこれまで書いてきたくらいはすぐに書いてしまいそうなので今回は省略するが、酸いも甘いも辛いも苦いも、さまざまな思い出がある、まさにソウル本屋(あえてソウルなんとかと多発しているが「まさに」の後にソウル+ふだん使わない組み合わせは、われながら違和感たっぷり)である。
沼書房の前を通り過ぎ、市民センターをこんどは正面から見る。やたら「人権どうのこうの」の垂れ幕が多い。ジュニアなんとかで門松を作った際、ケンリくんが「復讐してやる」とかなんとか言いながら竹をアスファルトにこすり付けて傷だらけにしていて、私もそれを真似てみたのを思い出した。
市民センター前にはかつて郵便局があった。たぶんATMを初めて使ったのはこの郵便局だったのだが、10年ほど前に移転してしまった。
実家へと入っていく道の角に、20歳になるまで通い続けた散髪屋がある。その後の10年は全都道府県で散髪する計画の仕上げにしようと、一度も訪れていないのだが、写真を撮っていたら、ちょうど店を閉めるところだったおっちゃんと目が会ったので、挨拶した。私がすっかり怪しいおっさんに成り果てても、おっちゃんはすぐにわかってくれた。仕上げにとってあるので、あと5年くらいかかりそうですが待っておいてくださいと伝えた。
散髪屋の向かいに、町内会の花壇があり、そこに、標語が書かれたおよそ30cm角のコンクリート柱が建っている。その上に、やや出来が悪いのではないかと思える2羽の、多分鳩の像がある。この鳩の一羽に、20年前と同じように蓑虫がぶら下がっていたのがたまらなかった。
実家に帰ると、母が作っていたおはぎが完成していた。それを持って家の向かいの習字の先生の家を訪れた。中学生になるまで、ここで毎週水曜日、書道教室に通っていた。当時は、数年前に亡くなった旦那様と、今もご健在の奥様の二人体制で、厳しくも楽しい指導をしていただいたものだ。現在は母が奥様に指導を受けているという。ただ、やはり遊びたい盛りの私にとって、時にこの教室は決められた量を書き上げるだけの作業になっており、苦痛となることがあった。ところが先日、ノルマの定められていない、いわば自己満足のために15年ぶりに筆をとる機会があり、これが実に楽しかったので、そのような話もしながら、最近の自分の仕事や趣味の話をしたりした。当たり障りのない話ができるようになっている自分に驚いた。旦那様の形見ということで、色紙、筆、墨をいただいてしまった。
実家での夕食は、前日に引き続いて旧友に付き合ってもらった。ここ数回の帰省は、年末年始でもあり、また客人がいたため、どうしても何かしら特別な料理になっていたが、彼は家族同様とみなされるため、久しぶりに母の作るかっこつけ無しの夕食を食って満腹になった。翌日はもう自宅に戻る日で、早朝から出発し、佐賀に散髪に行って福岡空港から飛行機に乗ろうと思っていたが、追憶があまりに楽しく、もう少し思い出の地を回ってみようと思った。
つうわけでまだ翌日の話が続くぜ。