先入観

数年前、その辣腕故に会社の中枢と深く繋がった営業マンから、彼が考案した計画を毎日聞かされ、しかしさまざまな背景から何一つ実行に移せないという日々が続いて、辣腕営業マンの話自体に食傷していた時期があった。
私はそもそも胡散くさい人に対して身構えてしまうようなところがあり、辣腕営業マンはその風体をひとことで表すと「いんちきおじさん」であったため、無用に距離を取ろうとしていたのは否めない。する必要もないが、また弁明といえるのかもわからんが弁明しておくと、しかし、私の「いんちきくさい」は相当な褒め言葉だ。
この辣腕営業マンはイタリアやドイツのバイクに乗るそうだが、バイクに乗るひとをライダーと総称していたと思う。私は都市部での移動手段としてその実用性に惚れて以来10年間、毎日のようにバイクに乗り、細切れではあるが、バイクに乗って日本中を旅行している。が、ライダーという言い方はどうも馴染めない。バイク乗りも同様。バイカーに至っては、前出の二つとも人種が違うじゃろと思う。私はそんな特別なものではなくてたまたまバイクが好きで毎日のように乗っているだけだ。ともかく辣腕営業マンにライダーよばわりされ仲間ぶられるのも心外だった。

そんな辣腕営業マンと、私のほか数名で、社内の個室にこもっていつものように打合せをしたある日のことである。当時は社内にインスタントコーヒーメーカーとでもいうのか、好みの銘柄を選ぶと紙コップにコーヒーが注がれる自動販売機があった。一杯10円だか無料だかだったので、皆が利用していた。私も同席者も、辣腕営業マンも例外ではなく、その打合せの出席者は全員がこれを利用した。
私はコーヒーに限らず、余計な味つけはしないほうが好みというか調味料を入れるのが面倒というかさらにいうと果物やゆで卵の皮をむくのさえ面倒で過去皮ごと食って最も後悔したのはキウィフルーツだとかまあいろいろだ。そんなわけで砂糖もミルクも不使用。書いていて、自分はシュガーとミルクといったり、砂糖と牛乳といったりしないなあと思ったがどうでもよい。辣腕営業マンはたしか両方使用していた。
上記の指の油(ニアリイクォール舌の根)も乾かぬうちに書いてしまうと、私はコーヒーに牛乳を入れるのは好きだ。ただし、ミルクピッチャ等で用意されていて、あとは注ぐだけになっている状態限定だ。冷蔵庫から牛乳パックを取り出してまで牛乳を注ぐ気にはならない。また、注いだら注ぎっぱなしで、攪拌することはしない。これはおそらくコーヒーに注ぐミルク系商品のテレビコマーシャルでミルクが渦を巻いているような絵が印象に残っていて、混ぜて均一にしてしまうのが無粋だと思い込んでいるのだと思う。あるいはやはり面倒なのか。
辣腕営業マンは私と違い、ミルクを注いだら攪拌する習性があったようだ。ただ、このときの打ち合わせの場には、かき混ぜ棒や匙がなかった。給湯室に取りに行く時間が惜しかったのか、あるいはいつもそうしているのか不明だが、辣腕営業マンは、おもむろに胸のポケットからボールペンを取り出し、ミルクを注いだばかりのコップに突っ込んで攪拌しはじめた。寡聞にして、そんな行為を目にしたのは、主体が辣腕営業マンか否かに関わらず、この一度きりだ。正直なところ意表を衝かれ、驚いた。まあしかしそれはなんだかかっこよく見えなくもなかった。

話は2006年3月に飛んで、前回(http://d.hatena.ne.jp/zushonos/20060317)少し触れた、私の目を覚ましたジャックさんの行動について書く。
前回書いた社内引越し以来、私はジャックさんを斜め後方から観察できる席になっっていた。ある日の終業時刻後(とはいっても終業時刻で退社する人は少ない)、ジャックさんはいつものようにその知識を後進に伝えるべく、自分の机の脇に質問にやってきた後進の一人に対し、おそらく質問の回答に数倍する熱弁を振るっているのが目に入っていた。
視界の端にジャックさんのありさまを捉えながら、自分の机でなにか作業をしていたら、地下に降りたヨンさま(以下UGヨンさま)が私の席の方に歩いてきた。昨今CDや漫画の貸し借りをしており、しばらく漫画を借りたままになっていたので、そのことで話があるのかと思いきや、少々様子がおかしい。なにやら口元を手で覆い、肩は震えている。UGヨンさまは開口一番「ジャックさんの有様を見よ」と私に伝えた。
以前何度か書いたが、弊社の社内には気の利かない食品自動販売機(http://d.hatena.ne.jp/zushonos/20041217)がある。ジャックさんもこの自動販売機の愛用者で、遅くまで会社に残るときは、終業時刻になるとすぐこの自動販売機に行って、パンやドーナツを買ってきて食べている姿を見かける。この日も例外でなく、ジャックさんは自動販売機でプラスチックのトレーに入ったドーナツを買ってきて食べていた。その途中で、後進がやってきたらしく、机の上には食べかけのドーナツが置かれていた。
ジャックさんを挟んで、質問に来た後進の反対側に、私が小学生のとき通った村田そろばん塾にいた一級上のにいちゃん(当時エポック社の速球王(球速測定機能つき野球のボール)で130km/hが出たと自慢していたが本当だろうか。ちなみに私は微振動するマッサージ機を使ってシュウォッチ2で10秒間400連打の記録を出したがこれは紛れもない真実で、コンスタントに300連打程度はできていたと思う)と同姓同名の同僚が、ジャックさんの方を向いて立っていた。おそらく彼もジャックさんの熱弁に巻き込まれたのだろうが、目下熱弁の対象は完全に質問に来た後進で、ジャックさんはなにやら手元を動かしながら、同姓同名の同僚に対しては背を向けていた。同姓同名の同僚は、口元を手で覆い、肩を震わせていた。
ジャックさんの様子を改めてよく見てみた。手元のドーナツを棒状のものでつつきながら熱弁を振るっている。それは銀色に光っていたが、フォークではなかった。先端部分は5cmほど、1本のみで分岐していない。
弊社の現場で実権を掌握する人は、そこそこの頻度で交代しているそうだ。先代か先々代にあたるのかはわからんが、ともかく当時実権を掌握していた人は、書類を束ねるときはダブルクリップを推奨し、その他の束ね方を認めなかったと聞いたことがある。代替わりしてからは、ステイプラーやガチャックほかの利用がまかり通るようになり、文房具も多様化したようだ。もちろん通常のクリップも頻繁に使われている。業務の都合上、十数枚の単位で書類をまとめる機会が多いので、長辺が5cmほどある大型のものが重宝される。ジャックさんの机には、筆記用具のみならず、これらの文房具も大量に保持されていた。
ジャックさんがドーナツをつついていたのは、大型クリップの一部を曲げ伸ばしたものだった。私が観察している間に、ドーナツはクリップにより真ん中で切断された。そのうち一片はクリップで突き刺され、ジャックさんの口へと運ばれた。
UGヨンさま、同姓同名の同僚に続き、私も震えた。それ以上直視していると、自分が騒ぎ出してしまいそうで、机に突っ伏してこらえた。
正直なところ意表を衝かれ、驚いた。まあしかしそれはなんだかかっこよくは見えなかったが、可愛らしかった。

UGヨンさまによると、その後件のクリップはジャックさんによって元の形へと修正され、引き出しに収納されたそうだ。


本文とは関係ないがこのできごとに前後して開催された義兄の結婚式のひとこまです