おもしろい

嫁実家で、日曜日に嫁兄夫婦が蟹を持って来るので、一緒に食おうという誘いがあった。喜んで出かけた。ちなみに嫁は友達の結婚式二次会で不在のため、単身で嫁実家に上がり込んだ。嫁不在時に嫁実家に行ったり留守番したりするのはそう珍しいことではない。幸いにして嫁一家に気に入ってもらえているようだし、こちらも嫁一家のファンである。

この日の面子は嫁父、嫁母、嫁兄、嫁兄嫁、嫁妹、私だ。途中何箇所か立ち寄る用事があって、19時過ぎに私が到着したときには、すでにほかの面子は蟹を食い終わり、ほかの料理を食べたり酒を飲んだりし始めていて、私の分の蟹だけ残されていた。無心に蟹を食い始めた私の周りで、嫁の一家はいつものようにおもしろ一家ぶりを存分に発揮しはじめた。

嫁一家のおもしろさはいろいろあるが、それぞれ好き勝手なことを喋っていながら、分刻みで誰かがキラーコンテンツを披露し、主役となって話題をさらい、皆がそれによく食いつくため、なぜか会話が成立し、それが途切れることなく続いていくのが堪えられない。全員が最終的にはどうにかこうにか会話に参加しているというのは、父親が疎外された雰囲気の中で育ってきた私には不思議な感じである。

今回の主役は蟹の提供者である嫁兄夫婦だった。嫁兄は強面かつ柔和かつ豪快かつ繊細かつ実直かつ不真面目な雰囲気を持ち合わせた人で、外見は以前NHKの語学番組で歌を披露していたフランス男3人組のうちの一人が酷似していた。かつては体を鍛えるのが趣味だったそうで、現在は鍛えていないということだが、それにしても分厚い体をしている。年少時の写真はアイドルとして芸能界で活躍する可能性を感じさせるものであるが、常に坊主頭でもある現在のありさまは、初対面の人をして『どこの[組|部屋|一門]の方ですか』と言わしめる。嫁兄嫁はそんな嫁兄を制御する堅実な人だが、嫁妹が[トウニョウパジャマ|ジーアールチドリ]といった不思議な呼び方をすることもある。

嫁父は、柔和な雰囲気で、社会に於いては大変に尊敬される人だ。数年前に胃がんのため胃を全摘出したが、いまではすっかり健康で、山に登り、何でも飲み食いする。特に飲みの量が多く、周囲に心配をかけることがある。とはいっても、心配する家族および親戚は、嫁父の胃がんの手術のときに病院の待合室に大集合し、別の患者の家族が深刻で鎮痛な様子でいる中、ただ一組「久しぶりに会ったから」とずいぶん賑やかで明るいありさまだった。手術が成功したとわかるや否や、術後の入院が必要な本人を差し置いて、一族総出で寿司を食いに行ったものだ(手術が始まる前に行くこと自体は決まっていたような気がする)。いまさら心配するというのも虫が良いような気がしてきた。ともかく、嫁父はふだんはあまり喋らない人だが、酒を飲むとよく喋るか、よく眠ってしまう。

そんな嫁父には、10年以上前、会社帰りに酒を飲んで帰宅して、既に眠ってしまっている嫁兄を叩いたりゆすったりして起こし、ラーメンを食いに行くという習慣があったという。ある日、嫁兄がよく眠っているところに、嫁父の酔っ払って叩き起こしが始まった。無視を決め込んでいた嫁兄だったが、嫁父があまりにしつこく起こそうとするので、バックドロップを見舞ってしまったという述懐が、本邦初公開された。嫁父は酔っていておぼえておらず、他の家族は初耳だったという。

嫁兄も酔ってきて、過去の悪行や逸話が小出しされ始めた。小出しなのは嫁兄が渋っているというわけではなく、前述のように皆が好き勝手に自分の話をする(が他人の話への食いつきも良好である)からだと思う。空き地半焼事件やカトーノオヤジオセンベー事件、溝にはまったなんとかちゃん救出→好意を抱かれるが迷惑→なんとかちゃん父に殴打さる事件、週刊ポスト掲載事件などが紹介された。最後のやつは詳しく語られなかったが、前後に小出しされた話から推察すると、10年ほど前に、若者が多い繁華街で、当時流行の不良少年集団に対する圧力をかけまくってていたところ、集団に軟禁されてどうにかなったということだと思われる。嫁兄は当時その繁華街の真ん中を歩くと周りが道を空けてくれたそうで、それを『モーセ十戒ごっこ』と言っていたとかなんとか。さすがキリスト教徒である(少しずつ間違っているような気がする)。「話半分」ということばがあるが、嫁兄の場合は「話(の方が控えめで)半分」に思える。

私自身の、過去のありさまや父親との関係、そして昨今の勤務形態から、地下にまつわる話を思い出した。

宇部商業高校が夏の甲子園PL学園と決勝を戦い、準優勝したころ、原辰徳のパーフェクト野球盤を買い与えられた私は、大いに野球に興味があった。小学校4年生くらいまでは、おそらく並の小学生よりも肩が強く、そこそこの速さでボールを投げていた私は、投手志望であり、晩飯の前後に、家の前の道路に父親を座らせてピッチング練習にいそしんだものだった。球速はあってもしかし制球力はなく、暴投になったボールが後ろの壁に当たって跳ね返り、父親の後頭部を襲うこともままあった。父親が家族の会話に入れないほど口下手で疎外されるのは、当時の後遺症なのではないかと20年に一度くらい心配してみる。

少しやる気だった当時の私は、本格的なマウンドでキャッチボールをしたかった。家の庭は決して狭くはなかったが、植木が数多く植えられ、キャッチボールができる状態ではなかった。何かで地下にある核シェルターという存在を知ったのであろう、地上を有効に利用し、かつ万一のときに安全な地下構造の家に憧れた。地上には庭、ピッチング練習用のマウンド、玄関があって、生活空間は全て地下にあるのだ。すばらしい。

今では、くそ狭い水面下のロッカーでかび臭いにおいをかぐたび、地下で細々と生き延びるくらいなら、地上で核弾頭をくらって一瞬で消えてしまったほうが良いと思うことが多くなった。