押忍-第二章

2月の話を書く。これまた回顧録だ。

ある月曜日、くそ忙しい仕事も終盤を迎えていたが、やはり会社を出るのは遅い時刻で、日付が変わる頃だった。ちなみに定時は17時だ。

この日は帰りが遅くなるという想定のため、特別に電車ではなくバイクで出社していた。

このバイクは4年半毎日のように乗り続け、走行距離は8万kmを迎えようとしていた。整備に金をかけず、また自分でもたいしたことはできず、いろいろとぼろぼろになっていた。毎年この時期になると、通常にもまして気がまわらず、2年前はシート下に入れておいた車検証のコピーがぼろぼろになってエアクリーナーを詰まらせる事件、タイヤつるつる事件、タイヤに千枚通し刺される事件、キャリアのステーが折れて大変事件などがあった。今年は目だった事件はないが、慢性的にセルの調子が悪かったり、キャブレターの調子なのか、アクセルを大きく開けるとエンストすることが多かった。

そんな中、この時間から活気づく街、ギロッポンの中心を行く六本木通を走る。こちらがぐったりしているところにこれから元気になる人たちの間を走ると、苛立ちが無用に増幅される。

アマンドがある交差点を西へ進んだところで、私の目の前で、タクシーが無理なUターンをしてきた。このような車両は、危険行為を働いたという認識を持っていないに違いない。私は、彼らに気づかせてやるためにアクセルをあおるとか殴る/蹴るふりをするとかホーンを鳴らしまくるとかの行動をとるようになってしまっていた。ホーンは出力が弱く、また周囲がやかましいので心もとない。いつものようにアクセルをあおることにした。

これで彼が自分の危険行為を反省してくれれば良いと思い、タクシーの前に出てアクセルをあおる。いつもならこのまま加速し、危険車両から離れて終わりなのだが、このときは一瞬回転数が上がってエンストした。アクセルをあおってエンストというのもちかごろよくある話だったので、今回もそれかと思った。クラッチを切って惰性で走り、路肩に寄って歩道に上がる。広いところまで押していくと、六本木ヒルズの目の前だった。

まずキャブレター不調を疑い、チョークを引いたり戻したり、セルを回しっぱなしにしたり。しばらくやってもだめなので、押しがけを試みるが、いつもと様子が違う。押しがけは、一人でやるとなかなかエンジンをかけるところまではいかないが、それでも「ぼぼぼ」と音がするところまではいけるのが常なのだが、今回は「かちかちかち」としかいわないのだ。

プラグの不調を疑い、車載工具を使ってプラグを外してみることにした。車載工具は、コインで回せるネジで止まったサイドカウルの内側に入っている。が、過去、このネジを紛失して、通常のプラスドライバーで回すネジに交換してあった。カウルをゆがめてなんとかめくり、車載工具を取り出して作業開始。セルを回したり押しがけしたりした結果、予想通りプラグはかぶっていた。

深夜だったが、何人かの知り合いに電話をかけて知恵を借りることにした。が、彼らはプロではないし、なによりこちらの説明の要領が悪く、原因は特定できない。ともかくまずはプラグを良い状態にしたい。とはいっても近所にバイク用のプラグを売っている店などありそうにない。嫁に電話して、自宅に保管してあるプラグを持ってきてもらうことにした。電車はすでに終了していたので、バイクで来てもらう。

かぶったプラグはライターであぶると復活すると聞きかじったことがあったので、ライターを探すが持っていなかった。嫁を待つ間に、100円ライターを買って試そうと周囲を見回すと、道路の反対側にコンビニエンスストアがあった。が、道路の反対側に渡るには、100m以上離れた横断歩道を使わなければならなかった。嫁が到着するまではおよそ30分かかると見込まれたので、ついでに立ち読みでもしようかと思ったが、プラグの周辺を触った手はオイルや泥で汚れて真っ黒だったので、遠慮した。持参していたカイロはプラグの作業中に冷えてしまった。

寒さに辟易しながら待っていると、嫁が到着した。プラグを交換するが、やはり事態は改善しない。仕方なく、私のバイクはどこかに置いて、嫁のバイクに二人乗りして帰り、回収の方法は後日考えることにした。

バイクを置く場所の候補として、首都高速の高架下に新設されたバイク用駐輪場があった。引き返す方向になるが、500mほどしか離れておらず、しかも坂を下るだけなので、移動は楽だ。しかし、一日1500円だかの駐車料金がかかり、またいつ回収に来られるかわからない。もう一つの候補は、半年前まで嫁の実家があった社宅の敷地だった。こちらは駐車料金を取られることもなく、また最近まで頻繁に駐車していたため、比較的遠慮なく、長期間停めておける。難点は、道のりが2kmほどあること、また道のりは山あり谷ありだということだった。それでも、ほかに良いあてもなく、ここまで押していくことに決めた。

六本木ヒルズ前から、六本木通を渋谷方向に直進するのが最も平坦で直線的なルートなのだが、残念ながらバイクを押していける歩道は赤羽橋方向に下っていくしかない構造になっていた。遠回りになるが仕方が無い。坂を下りながら、最後の悪あがきで押しがけを試みたが不発。

下りきったところで、どちらに向かうか判断に迷う。ルート検索ができるハンディGPSを持っていたので、社宅への最短ルートを検索する。これが失敗で、おそらく最短には違いないのだろうが、結果的に、必要以上に山あり谷ありのルートになってしまった。

ともかく押し始める。嫁も合わせて自分のバイクを押すが、先方は100kg、当方は160kgのバイクだ。なんだかやたら軽そうに押していくのが腹立たしい。上り坂では顕著になり、さらに嫁の方はエンジンをかけて半クラッチを使いながら進んでいくのでほとんど人間に負担はかからない。先行して坂を上りきった後でバイクを置いて降りてきて、押すのを手伝ってくれるのだが、二人がかりでもなかなか大変だ。最初はそれでも単純にありがたがっていたが、そのうち、押してもらったときに車両が直立することでかえってバランスが崩れることに腹を立てたりするようになった。恩を仇で返すというかなんというかいやはやなんとも。

そのうち腕が張ってきて、平坦な道でも足元が怪しくなってきたと思ったら、ある散髪屋の前で、くるくる棒の方にバイクを倒してしまった。幸いくるくる棒への直撃は免れたが、かなり疲れていたので一人では起こせない。嫁を呼ぶが、声が届かないうちに角を曲がって先へ行ってしまった。途方に暮れる準備をしようと思っていたら、通りすがりのおっちゃんがバイクを起こすのを手伝ってくれた。すでに午前2時を過ぎていた。助けてもらっていてあれだが、お互い怪しい。

疲れ果てながらもなんとか社宅に到着した。気温はおそらく5度かそこらだったと思うが、嫁ともども大汗をかいていた。富士山に登ったとき以来の汗の量だった。あまりにも暑かったので、ヘルメットのシールドを閉める気がしなかった。

自宅にたどり着き、大急ぎでシャワーを浴びて布団に入ったのは午前4時。3時間ほど寝てまた出勤。ここ数年で最も嫌な疲れ方をした、押して忍ぶ一日だった。


壊れたバイクのバルブです