MOTUL

私の最愛のひと、ちゃげさんが亡くなった。享年18歳。
片付かない仕事を水面下で進行中の私の元へ、嫁従姉妹発嫁経由で訃報が届いたのは19時30分だった。絶句した後、個室にこもって落涙した。

初めて出会ったのは6年前。嫁と結婚して最初の夏休みだった。山形市内の嫁の叔母の家に泊めてもらったのだが、そこにちゃげさんがいた。夕方、嫁従姉妹、嫁、私の4名で散歩に出かけたときは、最初は元気いっぱいだったのに、飛ばしすぎて、帰りがけにはずいぶん大人しくなっていた。年の離れた私たちの会話に参加したいのか、うつぶせになって前腕を組み、頭を上げて耳を傾けている様子なのだが、眠気に勝てず、そのうち舟を漕ぎ始める姿がたまらなくかわいらしかった。嫁従姉妹にアンデスメロンのシールを貼られてしまい、アンデス呼ばわりされていたのをおぼえている。

翌年の春、単独で月山に向かい、そこでバイクのクラブの人たちとキャンプをすることになった。山形は通り道だ。事前の連絡はしていなかったが、ちゃげさんに会いたくて、記憶を頼りに嫁叔母の家に行った。ちょうど一家は外出中だったが、ちゃげさんだけが在宅だった。挨拶して写真を撮って、月山に向かった。

次に会ったのは2年後の夏。オリンピック開催期間中だった。嫁と一緒に、山形市内の中心部に近い集合住宅の高層階に引っ越していた嫁叔母一家を訪れた。ちゃげさんと一緒にエレベーターに乗って地上に降りて、霞城公園を散歩した。病気というわけではないのだろうが、前回会ったときに比べると元気がなかった。一緒に風呂に入って、体を洗ってあげた。

このすぐ後くらいから、目に見えて調子が悪くなってきたそうで、散歩も思うようにできなくなってきたらしい。連絡があるたびに「もうだめかもしれない」と聞かされた。一方で、山形県から表彰されるなど、めでたいこともあった。

去年の5月に、また会う機会があった。噂に聞いていた通り、だいぶ弱弱しくなっていて、散歩に出かけてもすぐ戻らなくてはならなかったが、嫁従姉妹からプレゼントされた可愛らしい服を着た姿はいとおしかった。ちょっと脱毛が目立っていた。隣に布団を敷いてもらって一緒に寝た。ちゃげさんは朝早起きだったので、一緒に起きてベランダで過ごした。今回が最後かもしれないと言われた。

2週間前、嫁従兄弟の結婚式が鶴岡で開かれた。一族総出の素敵な結婚式だった。ちゃげさんは相当具合が悪くなっていて、寝たきりの要介護状態だったが、嫁従姉妹の車で結婚式場までやってきた。一年前より辛そうにしていたが、脱毛の症状はむしろ回復していて、もしかしたらこれから回復するのではないかと思えた。嫁が似顔絵を描いてあげたら、喜んでいたような気がする。

夜は嫁叔母と従姉妹による介護に同席させてもらった。ちゃげさんは辛そうだったが、とても大切にされていて、幸せそうにも見えた。

こうして書いてみると私がちゃげさんに会ったのは5回だけ。延べ日数にしても10日に満たない。それでもとても悲しくなったのだから、18年間一緒に過ごした家族の気持ちはいかばかりだろうか。

ちゃげさんはきっと嫁の言う「うれしいたのしいところ」に行ったはずだ。いつかそこで再会してみたいものだ。